残間里江子は波瀾万丈。夫や息子・実母について。宇多田ヒカルの母との関係。

残間里江子は波瀾万丈。夫や息子・実母について。宇多田ヒカルの母との関係
出典元:クラブ・ウィルビー(club willbe)

プロデューサー・テレビのコメンテーターとして、各方面で活躍している残間里江子さん。

残間さんの名前が一躍世に知られるようになったのは、山口百恵さんが引退する時に出版した『蒼い時』をプロデュースしたことです。

また、残間さんは「未婚の母」となったことも話題に。

何事にも真剣な残間さんの人生とはどのようなものなのでしょうか?

スポンサーリンク

波瀾万丈な人生

残間さんは、挫折を重ねながらも節目節目で区切りをつけ、一歩づつ前へ進んでこられました。

1950年3月21日、宮城県仙台市で産まれた残間里江子さん。きょうだいは3歳年下の弟がいる。

当時、両親は共に旧国鉄職員だったが退職。そして父親は友人と事業を始めるが、うまくいかず、一家の生活は困窮していた。

そんな家庭環境の下、残間さんは物心ついた時から、貧乏から抜け出すには「自分が働くしかない」と思っていた。

また、生後間もなく身体が弱く、小児性関節リウマチ炎や心臓弁膜症にかかり、療養生活を続けていた。

ある時、ユネスコ少年少女合唱団に選ばれましたが、ユニホームが買えずに辞退。

中学生になり父の転勤で静岡県に。富裕層の多い静岡での生活は同級生が家畜小屋だと思っていた建物に住んでいたという。

高校は静岡の女子校に進み、大学は明治大学短期大学に進学。当初は四年制大学を希望していましたが、経済的な理由で諦める。

アルバイト代でアナウンス学校に通い、難関を突破し静岡放送にアナウンサーとして就職。

当時、多くの会社には結婚したら辞めるという暗黙のルールがあった。だから2年たつと年長の女子アナはほとんどいなくなり「このまま、いても先がない」と思った残間さんは退社を決意。

退職したものの再就職のあてはなく、とにかく人に会うことによって活路を見いだすしかないと、1日最低10人に会うというノルマを課し、実行していた。

その後、
1973年6月、光文社に入社し女性自身編集部記者として勤務。
収入は人並み以上で仕事も軌道に乗ってる。というまさに順風満帆だったが、新しい可能性に挑戦したくて29歳で記者の仕事を辞める。

1980年 企画制作会社「キャンディッド」(現「キャンディッド・コミュニケーションズ」)を設立し、代表取締役社長。
シャンソン歌手の金子由香利さんと知り合ったことで、思いがけない事に。

金子さんのファンだった山口百恵さん(現:三浦)と近しくなり、ある時「私の本作りを手伝ってもらえませんか」と手紙が届いたそうです。

そして1980年9月、山口百恵さんの『蒼い時』をプロデュースし、知名度が上昇する。

1983年、33の時に女性雑誌『Free』を編集長として立ち上げる。

2001年1月 財務省「財政制度等審議会」委員を担当。

2001年2月 国土交通省「社会資本整備審議会」委員担当。

2002年12月 「キャンディッド・コミュニケーションズ」代表取締役会長に就任する。

2004年3月 厚生労働省「2007年ユニバーサル技能五輪国際大会」総合プロデューサーを担当した。

2005年7月 クリエイティブ・シニア(現「キャンディッド・プロデュース」)設立、代表取締役社長に就任。

2009年1月、セミナーなどを開催する会員制ネットワーク「club willbe」を創設し、代表に就任。

アナウンサーを辞めてから、ここまでのし上がってこれらましたけれど色々な苦労や困難もあったことでしょうね。

幼い頃に感じた「貧乏から抜け出すには自分が働くしかない」という考えが根本となっているのでしょうかね。

バイタリティー溢れる素敵な女性です。

結婚した夫や息子、実母について

残間さんが結婚したのは20代後半。お相手は大学時代の部活の仲間だったそうです。当初、結婚生活は順調だったようですが、仕事で多忙を極めるようになり、理解を示していた旦那さんでしたが、寂しさからか女性の影がチラつくようになったという。

そして残間さんは「離婚したい」と伝えるも、旦那さんはその気がなく離婚に応じず、調停は長引き、全財産を慰謝料として支払うことで決着したそうです。

離婚が長引くと結婚の時よりも時間もかかり体力もいり精神的に疲れますね。

子供について

なんと残間さん、別居期間中に交際していた男性との間に子供を授かったという。もともと持病があった為に、医師から妊娠は難しいと告げられていたので、命を授かったと知った時は驚きと同時に、何としても産みたい!と思ったそうです。

その男性とは出会って間もなかったから、結婚生活がうまくいくかどうか迷っているうちに段々と時間がたち、39歳でシングルマザーとして生きることを決意したという。

妊娠を理由に仕事を休む気はなかったから、出産時には人間ドックに入ります。と言って入院し、出産してから1週間後には現場にいたそうです。

極秘出産にもビックリだけど、なかなか出来ないものですよ。周りは、お腹の大きさは気にならなかったんでしょうかね?ほんと、残間さんが男前に見えてきましたよ。

そんな必死の思いで産まれたのは男の子。

現在の息子さんは、既に独立して同じメディアの世界に身を置いているんだそう。

シングルマザーなって、父親役もやらねばと厳しく息子さんを育てたという残間さん、息子さんはきっと素敵な方なんでしょうね。

母親について

残間さんの母・富枝さんが年を重ねてから少しづつ耳が遠くなり、電話の呼び出し音にも気が付かないことが増え一人にしておくのが心配になり、東京に引っ越ししてこないかと提案したそうです。

しかし、母は長年住みなれた所から引っ越すのは嫌だと拒否。残間さんはそんな母に対して、ゆっくりと時間をかけて説得し、ようやく承諾してくれました。

始めは、マンションの8階、3階と別々に暮らしていたそうですがお母さんが転倒したのをキッカケに一緒に暮らすことに決めたという。母96歳の時でした。

同居するにあたり、残間さんは仕事以外の時間のほぼ全て、お母さんのために時間を費やしたそうです。

いつも一緒にいるとついつい口論になりぶつかり合うこともしばしばあるそうですが、それが返って親子の絆というものを実感できたと言います。

そんな介護生活の中、お母さんが99歳の時に他界されました。亡くなる前は「ありがとう」しか言わなくなったと言います。

介護って聞くと、毎日が大変だと思う中で、残間さんは、それを働きなが実践されていたというからただただ凄いなぁと思います。

また、親子関係は良好で介護をする側もされる側もいい関係だったんでしょうね。

宇多田ヒカルの母との関係性

宇多田ヒカルさんのお母さんといえば、藤圭子さん(本名:宇多田 純子)。
2013年8月22日に若くして死去されました。

残間さんと藤さんとは、現役時代から知り合いで引退してアメリカに渡ったあとも友達といっていいほどの間柄だったようです。

夫である宇多田照實さんと結婚することなった時は、立会人になって区役所に届け出をしたりしていたそうです。

それから間もなくすると妊娠した藤さんをNYの家まで訪ね、手料理を披露してくれたりと幸せな家庭だったそうです。

その後、宇多田ヒカルさんが誕生すると学校の相談にのったりとしていました。

しかし、宇多田ヒカルさんが大ブレークした頃には、傍をウロウロすることに躊躇し、いつしか少しずつ、疎遠になっていったそうです。

疎遠になってしまった原因を残間さんはこのように語っておられました。

今考えれば、何故頑なまでに会わなかったのか、
不思議な気もするのだが、娘のヒカルちゃんが、
あれだけ大ブレークをしたことで、
「物欲しげナ人間に思われたくない」という、
見栄が働いたのかもしれない。

……今は、
私に見せてくれた、
屈託のない笑顔を思いながら、
冥福を祈るだけだ。

大人になれば考えなくていいことを考える。そう思うと子供って羨ましいと思う。

まとめ

山あり谷ありの人生を過ごされてきた残間さん。残間さんを見ていると順風満帆よりも、山々谷々かもしれませんがそっちのほうが何十倍も楽しいのかなぁと・・。

でもそこに至るまでには、並々ならぬ努力と才能、そしてバイタリティー溢れる性格が必要となってきますがね・・。なかなか難しものです。

そんな、濃い人生を歩んでこられている残間さんが羨ましく思います。

スポンサーリンク
スポンサーリンク