山本富士子、旦那・古賀丈晴との関係が素敵!子供や孫は?初代ミスは逆境に負けず内面も綺麗


山本富士子、旦那・古賀丈晴との関係が素敵!子供や孫は?初代ミスは逆境に負けず内面も綺麗
出典元:YAHOO!

第1回ミス日本受賞者として「日本美人」の代名詞といわれた山本富士子さん。

美貌は衰えるどころかいつまでも綺麗で80歳を過ぎても女優として活躍されています。

そんな山本さんについて調べていきたいと思います。

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山本富士子 プロフィール・経歴

【芸名】山本富士子(やまもと ふじこ)
【出身】大阪府大阪市西区立売堀
【生年月日】1931年12月11日
【身長】159
【血液型】AB

山本富士子さんは、昭和6年生まれで14歳の時に敗戦を迎えました。

大阪府泉大津市の3階建ての洋館で暮らすも、突然進駐軍に接収され、両親、お姉さん、山本さんは自宅から立ち退かされて京都へ転居することに。

そんなある時、父親の友人が京都市役所の広報課に所属していて、山本さんにミスコンテストの応募に出てみないか?と山本さんを誘います。

彼女は色々悩みましたが、ミスの仕事は米国からの支援物資の答礼使節としての大任であるとの趣旨に感動し、推薦を承諾したそうです。

1950年、第1回「ミス日本」(700人近い応募者があった)において、満場一致でミス日本の栄冠に輝きました。

ミス日本に選ばれた後、映画界からスカウトが殺到。

しかし当の本人は女優になる意思はなかった。しかし姉の「これからの女性は仕事を持つことよ」という言葉に女優になる決心をする。

ミス日本受賞から3年後、1953年に大映に入社、看板女優として活躍する。

しかし、1963年に大映との契約更改でもめ、フリーとなり映画の世界から去り、テレビや演劇の世界へと転身するのでした。

夫との関係が素敵!子供や孫は

1962年、古賀政男さんの弟子でギタリスト、作曲家の古賀丈晴さん(後に「山本」姓を名乗るようになります)と結婚します。

山本さんがレコード録音のため古賀政男さん邸にレッスンに通っているうちに古賀門下の高弟・古賀丈晴さんと知り合います。

そしていつしか恋が芽生え結婚しようと約束しました。

しかし結婚について両家は大反対だったといいます。

なぜなら丈晴さんは結核を患っていたから・・。しかし手術が成功したら結婚をすると約束した2人。

映画『彼岸花』の撮影中、丈晴さんのお兄さんから「手術は無事成功した。」との電話を受けた山本さんは、感激のあまり泣いたと語っている。

はれて結婚した2人。

「天下の美女」との結婚に、メディアもファンも2人の結婚に祝福の拍手を惜しまなかったという。

1968年には長男を出産。現在はお孫さんもいらっしゃいます。

2011年9月、最愛なる夫・山本丈晴さんは肺炎で他界されました。

外見だけでなく内面も美しく逆境に強い

山本さんはあまりの美しさで、このようなエピソードがあります。

山本さんは日本銀行の就職試験をうけるも不採用となったといいます。

後、当時を知る日銀関係者がある雑誌のインタビューで

「適性など能力には全く問題がなかった。ただあの美貌ゆえ、男子行員達が落ち着かなくなるのではと心配されて採用が見送られた。」

という。

作家の三島由紀夫さんは自身の小説『にっぽん製』の映画化の時、主演する山本さんと会って話をしていたそうです。

三島さんはその時の山本さんの印象を

「外見だけでなく内面も素晴らしい女性」

と絶賛していたという。

そんな山本さんの趣味は一筆画。都築彩道さんに師事。

展示会にも出展する実力といい、自宅で来客をもてなす際も、手料理の献立に一筆画を添えるという。

料理は得意で、スタッフにも振る舞う鍋は「富士子鍋」と呼ばれる人気メニューになっているそうです。

外見も内面も全てにおいて美しい山本さんってほんとに素敵な女性です。

逆境に強い

1962年1月、大映との契約更新の際、山本さんは年間2本の他社出演を希望していました。

会社側が年間1本しか現実には許してくれないことに不満を訴え、永田雅一社長に強く確約させたといいます。

そして、豊田監督『如何なる星の下で』『憂愁平野』と、ようやく年間2本の他社出演を成し得ることができました。

しかし『憂愁平野』出演の際、主演スターの貸し借りはしないという、戦後の日本映画5社で取り決めた「五社協定」を盾に他社からの横やりが入って大もめになりました。

そうしたことから、山本さんは1963年1月の契約切れをもってフリーになることを大映に申し入れます。

しかし、これが永田社長の逆鱗に触れ、大映を解雇

五社協定の圧力が一気にかけられ、映画出演の道を閉ざされてしまいます

こうしたことにより、テレビや舞台にも最初は圧力がかけられていましたが、64年より舞台出演が周囲の尽力で叶い、以後、山本さんは舞台を中心に活動し、そちらの道で喝采を浴びるようになっていきます。

逆境に負けず、その後の女優人生を切り開いていった山本さん。

裏腹に、悪しき愚行の天罰を受けるかのように、60年代から70年代にかけて一気に日本映画界は衰退し、大映は倒産

しかし、五社協定の縛りがなくなってからも、彼女は決して映画に出演しようとはしませんでした。

市川崑監督が『細雪』演出の際、長女役を彼女にオファーしたといいます。この時はもしや映画界復帰?とファンは注目しましたが、結局出演されませんでした。

後、完成した作品を見た彼女は、断ったことを後悔したといいます。

山本さんの芯の強さ、ブレナイ精神は見習いたいものですね。

まとめ

いつまでも元気で素敵な山本富士子さんでいてほしいなぁと思いますね。

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