村岡花子の生涯、朝ドラ『花子とアン』の翻訳家。赤毛のアン記念館はどこ?


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村岡花子さんの生涯をNHK朝ドラ花子とアン』で描かれることが決まりました。村岡花子さんの生涯と共に『赤毛のアン』が生まれるまでを簡単にまとめてみました。

1893年
山梨県甲府市に生まれる。(旧姓名) 安中 はな(あんなか はな。後に結婚前のペンネームとして安中 花子を使用。)父:安中逸平と母:てつの長女として山梨県甲府市で生まれる。

父の実家は駿府(現・静岡県)で茶商を営んでいましたが、父は、熱心なクリスチャンで実家を離れ、てつの実家に身を寄せていました。花子は2歳の時に、甲府で幼児洗礼を受けました。

1898年(花子5歳)
父親は親戚とのしがらみに決別、一家で上京。南品川で葉茶屋を始める。

1903年(花子10歳)
貧しい暮らしでしたが、父親は花子に高等教育を受けさせる道をつけたいと願い、麻布の東洋英和女学校に寄宿生として入学。ここで花子は父の期待に応えるため猛勉強する。

1904年
東洋英和女学校へ編入学。カナダ人宣教師から英語を学ぶ傍ら、佐佐木信綱から日本の古典文学を学ぶ。高等科在学中から翻訳家松村みね子の勧めで童話を執筆。

1914年(花子20歳)
東洋英和女学院高等科を卒業。英語教師として山梨英和女学校に赴任。 同年、友人と共に歌集『さくら貝』を刊行。キリスト教の夏季講座で市川房枝と出会う。

1917年
教文館に女性向け・子供向け雑誌編集者として勤務。

1919年(花子26歳)
福音印刷合資会社の経営者村岡儆三と結婚、村岡姓となる。

1920年(花子27歳)
長男の道雄が誕生。

1923年(花子30歳)
9月1日、関東大震災が発生。それにより一気に多くのものを失う。(会社、人、お金。)

1926年(花子33歳)
長男の道雄が疫痢で喪う。(このことを機に、英語児童文学の翻訳紹介の道に入る)

1927年
マーク・トウェインの”Prince and Pauper”を翻訳し邦題『王子と乞食』として公刊。

1932年〜1942年まで(花子39歳)
JOAKのラジオ番組の『コドモの新聞』コーナーに出演、『ラジオのおばさん』として人気を博す。第二次世界大戦中は大政翼賛会後援の大東亜文学者大会に参加また、婦人参政権獲得運動に協力。

1939年(花子46歳)
宣教師のミス・ショーからモンゴメリの”Anne of Green Gables” を受け取る。

1952年(花子59歳)
モンゴメリの”Anne of Green Gables” を翻訳し邦題『赤毛のアン』として公刊。『赤毛のアン』以降もモンゴメリの作品翻訳を次々と手掛ける。

1960年
児童文学に対する貢献によって藍綬褒章受賞。

1963年
夫を喪う。

1967年
カナダを訪問。

1968年
脳血栓で死去。

長男・道雄の病死後、子供に恵まれなかった事から、妹(梅子)の長女(みどり)を養女とする。その(みどり)の娘で花子の孫にあたる(村岡恵理)は『赤毛のアン記念館』館長を務めている。
クリスチャンとしては日本基督教団大森めぐみ教会の会員として、教会に通った。

花子の家族構成(村岡家)
村岡美枝 (花子の孫)翻訳家・英米文学者。
村岡恵理 (花子の孫)(美枝の妹)作家。著書『アンのゆりかご-村岡花子の生涯-』は花子とアンの原案となる。(美枝)と共に「赤毛のアン記念館」を主宰。
村岡希美 (花子の姪孫)女優。

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赤毛のアン記念館・村岡花子文庫

ご家族の提案から大森の自宅にそのままのかたちで残る村岡花子さんの書斎を、『赤毛のアン記念館・村岡花子文庫』の場所とし、村岡花子さんの著作物や蔵書の保存、また同時代の児童書が保存されています。

『赤毛のアン』が紹介された当時からの読者の方々に、アンと出会った時の心のふるさとともなるように、また現在の若い読者の方々には、明治,大正,昭和と、このような理想をもって生き抜いた女性がいた。ということを知っていただきたいという気持ちから、記念館の開館の運びにつながったようです。

所在地:東京都大田区中央3ー12ー4 イングルサイドハウス大森1F

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