モンゴメリの生涯。『赤毛のアン』村岡花子NHK朝ドラ『 花子とアン』


モンゴメリの生涯、赤毛のアンと村岡花子NHK朝ドラ『 花子とアン』
出典元:Wikipedia

【モンゴメリ 生涯 赤毛のアン 村岡花子 NHK 朝ドラ 花子とアン】

村岡花子さんが翻訳された『赤毛のアン』。物語も気になりますが原作者についても気になりませんか?簡単ではありますが、『赤毛のアン』原作者であるルーシー・モード・モンゴメリの生涯についてふれてみました。

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モンゴメリの生涯

1874年
カナダ東部プリンス・エドワード島のクリフトンで生まれた。

モンゴメリが生まれたころのプリンスエドワード島は電話も車もなく、移動には馬車を使ってた。冬の家の中はとても寒かった。

モンゴメリが1歳9ヶ月のとき、母が結核で亡くなる。

その後、父はカナダ西部へ移住したため、キャベンディッシュに住む母方の祖父母に厳しく育てられた。

彼女の祖父母は、とても厳格な人で彼女がパーティにいくことは許されなかったし、友だちを家に招くこともめったになかった。

1880年
離れ離れになっていた父の住むプリンスアルバートを訪れる。彼女は父との再会をとても楽しみにしていたが、すぐに彼女は義理の母とうまく暮らしていけないと思った。なぜなら、義理の母はモンゴメリに家の仕事をさせたり妹や弟の世話をさせたかったから。

1年後にはプリンス・エドワード島の祖父母の家に戻っている。

1893年
キャベンディッシュでの中等教育を終えたモンゴメリは、シャーロットタウンのプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジへ進学し2年分の科目を1年で終える。

1894年
一級教員の資格を取得した。

1895年
ノバスコシア州の州都ハリファックスのダルハウジー大学で聴講生として文学を学んだ。わずかなかせぎと祖母からの援助でたった1年間ではあったが、ものを書くために価値のあることだと彼女は考えた。

1896年
彼女はまた先生にもどった。はとこであるエドゥィン・シンプソンがベルモントでの教職の仕事を譲ってくれた。彼はすぐ、モンゴメリのことを好きになったが彼女はそうでもなかった。しかし、仕事を続けたいがために、彼とひそかに婚約した。

1897年
モンゴメリはハーマン・リードという農夫に恋をした。ふたりが、結婚できないことはわかっていたが、彼女はエドとの婚約を破棄した。

1898年
祖父が亡くなる。彼女はキャヴェンディッシに住む祖母のところに戻ることになる。ハーマンにはもう二度と会えなかった。(彼は1899年、かぜのために亡くなっていた。)

1901年
ハリファックスで新聞社のデイリー・エコー社に勤めた。校正担当として雇われた。当時職場の中で、女性は彼女ひとりだった。新聞社の仕事では大きな収入は得られなかった。

しかし、彼女はこの仕事を愛していたし多くの経験ができることをうれしく思っていた。彼女は収入を補うために、記事を書いたり詩や小説を書くことを続けていた。

1902年
新聞社の仕事をやめ、祖母の世話をするため再びキャベンディッシュに戻った。ちょうどこの頃すでに雑誌向けの短編作家としてキャリアを積んでいた彼女は、最初の長編を書く気になったという。

1903年
モンゴメリは、ものを書く仕事で、当時の男性の収入より多い500ドルという大金をかせぐようになっていた。彼女の作品すべてが採用されたわけではなく不採用になる作品もいくつかあった。

彼女はときに孤独を感じていた。ほとんどの友人は結婚し、遠くへ行った。世間は、作家である彼女を好奇な目でみていた。何人もの男性が彼女に結婚を申し込んだが、彼女はそれを断った。彼女は作家を続けていくことを決意していた。

1905年
モンゴメリは、新しい物語のアイデアを考えていた。主人公の名前はアンにしよう。アンのつづりはAnnではなくAnneに。彼女は自分の名前のモウドをMaudではなくMaudeとまちがえられるのがとてもいやだった。

だから、アンにも名前のつづりにこだわるようにしたのだ。そしてアンの髪の毛は赤色だった。これは彼女が学生のとき、クラスに髪が赤いことでみんなにからかわれている子がいたから。

アンにはすてきな家に住んでもらいたいと思っていた。モンゴメリは近所にある緑色の屋根の家がとても気にいっていた。アンの家は「緑の切妻屋根」にして、グリーンゲーブルスとよぶことにした。彼女はアンの小説を書いていくうち、ますますアンが好きになっていった。

ちょうどそのころ牧師であるイワン・マクドナルドと親しくなった。
楽しく語らいながら、散歩をしたりする日には小説の筆はとまっていた。
しかし、彼女はすぐまたアンにとりかかった。

家事の合間での執筆ゆえ、作業場は台所だったり寝室であったりした。彼女はすべての力をふりしぼって、この作品に取り組んでいた。

1905年10月
アンの小説が完成。出版社へと送ったが、すぐに返却される。しかし、彼女はがっかりすることなく別の出版社へも送った。今までも不採用になることはよくあったのだから。

しかし、そこからも返却され結局、5社に送ったがすべて不採用だった。
涙にくれたモンゴメリはアンの小説を古い帽子の箱につめてしまいこんだ。

1906年
ユーアン・マクドナルドと婚約。
しかし、彼女は祖母のそばを離れるわけにはいかなかった。婚約してすぐ、マクドナルドは勉強のためスコットランドへと旅立った。

そしてまた、以前のように詩を書いたりする仕事をするうち、アンのことはすっかり忘れていた。何ヶ月もがすぎ、荷物をさがしているうちに、その原稿をみつけた。ページをめくるうちに、どんどんと興奮してくる。

この作品ならもう一度ためしてみる価値はある、そう思った彼女は今度はアメリカの出版社に送ってみた。ついに、彼女の作品は採用されたのだ。彼女は出版社からの手紙を手にしたが自分の目が信じられずにいた。

1908年6月20日、特別な包みがモンゴメリのもとに届いた。
それは彼女の本「Anne of Green Gables」だった。
「アン」はすぐにベストセラーになった。モンゴメリの名前はすぐに世界にひろまった。

彼女の作品に魅了されたのは子どもだけではなかった。カナダの知事やイギリスの大臣も彼女のファンになった。トム・ソーヤやハックルベリーを書いたマーク・トウェンは彼女にファンレターに書いている。

出版社はすぐに次の作品を書くように言ってきた。彼女はアンの作品をつくるのがうれしかった。

1910年
彼はオンタリオの教会の牧師になった。ふたりは結婚したけれども、ほとんどいっしょにすごすことができなかった。

1911年
モンゴメリの祖母が肺炎のため亡くなった。彼女は悲しみにひたった。祖母はきびしい人であったが、彼女が学校へいくことを助けてくれた。彼女は祖母を母のように思っていたのだ。しかしこれで、彼女は自由に結婚することができた。

1911年7月11日(モンゴメリ36歳)
結婚し、すぐにイギリスとスコットランドに向けて長いハネムーンにでかけた。彼女は自分の先祖の国に行くことをとても楽しみにしていた。
ハネムーンから帰って、ふたりはオンタリオの家にもどった。

彼女の愛した島からは遠く離れていたが、それでも自分の家に住めるということがうれしかった。彼女は残りの人生をここですごすことになる。
モンゴメリは続く11冊の本をリースクデールの牧師館で書いた。

1年後、彼女は長男を生んだ。そしてその2年後、次男が生まれる。

1926年
一家はノーヴァルの教区、(現在のオンタリオ州ハルトン・ヒルズ)に移住した。

1930年
夫であるマクドナルドは病に悩まされていた。しかし、職をなくしてしまうことをおそれた彼女は夫はただの頭痛だということにしていた。彼はほとんどの時間をベッドの上で過ごした。

モンゴメリは新しいシリーズをてがけた。マリーゴールド、エミリー、パットというキャラクターを登場させた。

1935年
フランス芸術院会員となり、また、大英帝国勲位も受けた。同年一家はトロントへ移った。

1939年
第二次世界大戦がはじまると、モンゴメリは自分の子どもたちが戦争で死んでしまうのではと不安だった。

1941年
たくさんの心労が重なり、彼女は健康を害する。

1942年4月24日(67歳)
モンゴメリはトロントで亡くなった。死因は「冠状動脈血栓症」とされてきたが、孫娘の(ケイト・マクドナルド・バトラー)によると、うつ病による自殺。グリーン・ゲイブルズおよび教会での葬儀のあと、キャベンディッシュ墓地に葬られた。

『赤毛のアン』に魅了された村岡花子←中項目
戦争へと向かう不穏な時勢に、村岡花子はカナダ人宣教師から友情の証として一冊の本を贈られる。『赤毛のアン』との出会いである。それは花子にとって運命的な出会いであった。

多くの人に明日への希望がわく物語を届けたい。その想いを胸に、空襲のときは風呂敷に原書と原稿を包んで逃げた。村岡花子は、命がけで『赤毛のアン』を世界的に広めてくれ翻訳家として誕生されたのである。

NHK朝ドラ『花子とアン』

2014年3月スタート朝ドラ『花子とアン』が始まります。物語は、村岡花子が明治から昭和の混乱期に翻訳家として活躍した生涯を描いたものです。

まとめ

モンゴメリ、村岡花子さんは波瀾万丈な人生を送られてこられたのですね。女性の社会進出・翻訳家の先駆けなとなったお二人に尊敬した気持ちです。

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